「幻の女」の

 細かいところは忘れたけど、ウィリアム・アイリッシュの「幻の女」のあるパートが好きだ。

 あるバーテンダーの男が、どこからか自分を見つめる視線があることに気づく。視線をたどるとそれは見知らぬ女性客で、どういうわけか自分をずっと見つめ続けている。男もだんだんその視線の、言い知れぬ圧迫感に耐え切れなくなってくる。ようやく営業時間がきて、急いで帰ろうとする男の後ろを、またしても店にいた謎の女がついてくる。堪りかねて怒鳴りつけるも、女も「あたしもこっちへ行くのよ」と言って決して離れようとしない。引き離そうとする男とついてくる謎の女、二人は駅のホームに微妙な距離を開けて並んで立つ。ここで変化が起きる。電車が来るのを待つ間、女が何気なしにホームの端近くまで歩いて行く。その後ろから男が近づいてくる。そこで女はうっかり自分が駅員からも見えないところに来てしまったことに気がつく。男の態度はさっきより落ち着いているけど妙な威圧感がある。女は、もし、すれ違いざまにホームに突き落とされたりしたら、と不吉な考えが頭をよぎる。男はだんだんと近づいてくる。そこへ、別の乗客が二人の近くに現れる。空気が緩み、そこへ電車が到着する。再び形勢は女に傾き、追跡が続く。

 初めに男が受ける視線の嫌ーな圧迫感とか、駅構内での力関係の逆転の緊迫感の描き方がとても好きで、自分の中でここだけ作品の別パートから独立して成り立ってる感覚すらある。

「幻の女」自体は書き出しがメッチャクチャカッコイイ名作ミステリーとして有名らしい。実際書き出しはとてもカッコイイ。

夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

  自分は稲葉明雄訳で読んだけどその直後に黒原敏行訳で新訳版がまた出てる。サンプルを見たところ冒頭の名文は同じようだ。